インタビュー 視覚障害者柔道選手 平井孝明さん

 平井は、2012年にイギリスで開催されたロンドンパラリンピックに初出場を果たした。パラリンピック出場という目標を掲げて挑戦し始めてから12年。ようやくつかんだパラリンピックへの切符だった。 パラリンピックに対する思い、また、国際ルールの変更によりパラリンピック出場対象外となったことについてどう受け止めているのか。平井に話を聞いた。(聞き手:河原レイカ)

【Q】2000年のシドニー・パラリンピックの日本代表選考に敗れて以降、パラリンピック出場を目標に掲げて、挑戦し続けることになりましたね。初出場まで10年以上、諦めずに続けられたのは、なぜでしょうか。

【平井】シドニー・パラリンピックの日本代表選考会の時は、初めての挑戦でしたし、まだパラリンピック出場を強く意識していなかったと思います。

2003年、僕が22歳の時に、カナダのケベックで開催されたIBSA主催の国際大会に日本代表として出場することができました。パラリンピックではありませんが、僕にとって初めての国際大会で、3位に入ることができました。結果を出せたことで、次のパラリンピック出場を強く意識するようになりました。

でも、2004年のアテネ、2008年の北京ともに、パラリンピックの日本代表になることはできませんでした。2004年から2008年の期間は、東京に住んでいました。最初は学生として、卒業してからは専門学校の講師として働きながら、近隣の大学や講道館で柔道をしていたんです。しっかり練習を積んだつもりで、パラリンピックの日本代表選考会に臨んだのですが負けてしまい、パラリンピック出場を果たすことができませんでした。

パラリンピック出場は難しいと感じ、自分には無理かもしれないと思う気持ちもあり、北京パラリンピックへの挑戦が終わった後、東京から地元の熊本に戻ることにしました。でも、縁があって、柔道は辞めずに続けていたんです。熊本で盲学校の教員として働くことにしたのですが、柔道部の顧問を務めることになりました。

元気の良い生徒が柔道部に入ってくれて、僕と、その元気の良い生徒と、もう一人の顧問の先生の3人で柔道の稽古していました。部員の生徒は、投げられても投げられても立ち向かってくる子でした。僕自身、最初は指導のつもりだったんですが、生徒がだんだん力をつけてきて、僕の練習相手になってきたんです。部活動をするうちに、僕も鍛えられて、もう1回、パラリンピックを目標にして挑戦しようという気持ちになってきました。

【Q】北京からロンドンにかけては、熊本で練習を積んで日本代表の切符を勝ちとったんですね。

【平井】北京パラリンピックまでは66kg級で挑戦していたのですが、アテネも北京も代表選考会で、藤本聰選手(アテネパラリンピック金メダル、北京パラリンピック銀メダル獲得)に敗れていました。

 熊本に帰った時に、新規一転、階級を一つ下の60kg級に下げたんです。そうしたら、アテネ、北京で60kg級の日本代表選手だった廣瀬誠選手が階級を上げて66kgになりました。そうしたこともあって、僕が60kg級で国内で優勝でき、ロンドンパラリンピックに出場できることになりました。

【Q】初出場のパラリンピックでは、どのようなことを感じましたか?

【平井】パラリンピックは、想像以上でした。

ロンドンに到着した時点で、街のあちこちにポスターが貼ってあり、街全体がパラリンピックの歓迎ムードに包まれていました。試合会場に入った時のカメラの数がものすごく多くて、あと、光ですね。照明の光がすごかったです。

試合会場が満員で、観客の皆さんが予選の時から拍手を送ってくれていました。3位決定戦の対戦相手が、開催国のイギリスの代表選手だったのですが、会場が揺れるような声援と拍手だったことをはっきり覚えています。「すごいな、こういうところで試合ができるのは幸せだな」と思いましたね。初めて「幸せ」というものを実感したように思いました。

3位決定戦で敗れてしまった時に、次のパラリンピックに挑戦しようと決意していました。やはり「メダルを獲りたい」と思ったんです。

2016年のリオ・パラリンピックでは、廣瀬誠選手(リオ・パラリンピック銀メダル獲得)が66kg級から60kg級に落としてきて、ライバルとして戦うことが分かっていました。廣瀬選手を研究して、日本代表選考の大会に備えていたのですが、日本代表選考の2週間前に熊本地震が起こりました。

大きな地震の後、道場が使えなくなりました。同僚の先生が学校の教室にトレーニング器具を運んでくださって、僕が教室や廊下を使ってトレーニングができるように協力してくれました。

熊本では余震が何度か続いていて、ガスも止まったりしている中で、僕の柔道の練習に付き合ってくれている人がいました。そういうことがあったので、リオ・パラリンピックの日本代表選考会は、何としてでも勝ちたかったです。日本代表になって恩返しをしたいという思いがあったんですが、負けてしまいました。この時の試合は、柔道をやっていて一番悔しかったです。

【Q】その後、東京パラリンピックまでは、どのように柔道に取り組んでいたんですか。

【平井】東京パラリンピックまでの時期は、ずっと悩みながら過ごしていました。国内の大会で、日本人選手同士の試合では勝てるんですけど、海外で開催される国際大会に出場すると勝てなくなっていたんです。

これまで掛けることができていた技が、相手に掛からなくなってきていると感じていました。海外の選手は対戦相手の試合の動画を見て、よく研究していると思います。特に東京パラリンピックを控えていた時期は、それを強く感じました。僕に対しても、他の選手に対しても、そうだと思います。

ようやく、2019年の東京国際視覚障害者柔道選手権大会で3位、IBSA柔道アジア・オセアニア選手権でも3位になることができ、海外の選手に勝てるようになってきたと思ったところで、新型コロナウイルス感染症の流行があり、東京パラリンピックが延期になってしまいました。

ただ、1年延期になった分、東京パラリンピックには海外選手の研究や対策などをして臨むことができたと思います。

東京パラリンピックは、悩んだ時期を経て出場したので、初出場だったロンドンパラリンピックと比べると、自分の中でパラリンピックの意味合いが少し違うように感じます。また、東京パラリンピックは、友だち、家族、職場の皆さん、様々な方の注目度がロンドンパラリンピック以上でした。注目度の高さは、これまでと全然違いましたね。

【Q】東京パラリンピックの後、ルールの変更があり、平井さんの視覚障害は、パラリンピック出場基準の範囲外になりました。平井さんの視覚障害について聞いてもいいですか。

また、このルール変更について、平井さんはどう受けとめていますか。

【平井】僕の場合、視野には問題がなく、視力が0.08~0.1になります。新しいルールでは、J2(弱視クラス)の視力は0.05以下になったため、僕は対象外となりました。

ルールの変更を聞いて、しばらくは、受け入れられなかったです。何とも言い難い気持ちになりました。

実は、東京パラリンピックが開催された2021年の4月に、膝の前十字じん帯を切ってしまいました。でも、4カ月後にパラリンピックの試合を控えていたので、手術はせずに、できるだけの対処をして臨んだんです。次のパリ・パラリンピックを目指すつもりだったので、2021年の年末に、膝の手術をしました。そしたら、年明けにルール変更の話が出てきて、「パリに向けて、せっかく出術したのに」という思いもありました。

しばらくの間は、パラリンピックを目指している選手と距離を置きたい気持ちもありました。

【Q】パラリンピックという目標が無くなっても、柔道を続ける選択をしたのはなぜですか?

【平井】時間が経つにつれて、だんだん気持ちが変わってきた感じです。

僕は、中学生から28年ほど柔道を続けてきて、柔道を通して繋がりを持っている人がたくさんいます。そういう人との繋がりは、僕の中で強みだなと思ったんです。

それから、これまでの自分を振り返ってみると、柔道を通して、自分自身が成長できていると思いました。障害に対する考え方が変わりましたし、パラリンピックに出場した時には、「幸せ」を感じることもできました。

僕が味わってきた思いを、他の人にも味わってほしいと思っています。経験してきたからこそ、他の人に伝えられることがあると思います。

柔道の大会についても、これまではパラリンピックしか考えていなかったけれど、一般の柔道の大会にも出場して、新しい人との繋がりをつくることができたらいいなと思えるようになりました。

パラリンピックだけで柔道を終わりにするのはもったいないと思えてきたんです。

【Q】これから、取り組みたいことは何ですか。

【平井】5段以上の有段者の大会や、マスターズの大会などに出場していきたいと考えています。様々な柔道への関わり方があると思うので、パラリンピックを目標にするのとは違う関わり方をしている人とも出会って、新しい繋がりを作っていきたいです。

また、視覚障害者柔道選手の育成や発掘もお手伝いしていきたいと思います。まだ、これから柔道をやってみようかと考えている人に、柔道の面白さを伝える役割ができたらいいですね。(了)