インタビュー 視覚障害者柔道選手 平井孝明さん

全日本視覚障害者柔道大会で2位の平井孝明(写真左)

パラリンピックは、特別な大会だ。

陸上や水泳など、パラスポーツそれぞれの競技で「世界選手権」などの国際大会はあるが、パラリンピックは複数の競技が同期間に実施され、出場国・選手数が圧倒的に多い。4年に1度、オリンピックと同じ都市で開催されることもあり、テレビや新聞などでも大きく取り上げられ、パラリンピックのニュースを見て競技を始めた選手もいる。パラリンピックの日本代表選手になれば、家族や友人、学校や職場の同僚など身近な人だけではなく、街中で出会った知らない人からの応援も一気に増える。

パラリンピックには、各国の代表選手たちがコンディションを整え、最高の状態に仕上げて臨んでくる。より高いレベルで競い合いたいと望んでいる選手なら、誰もが出場してみたいと考えるだろう。

特別な大会だからこそ、パラリンピックは、選手たちの競技に対するモチベーションを掻き立てる。身体に負荷のかかるトレーニング、細かい身体動作の確認や追求、食事や睡眠の質の改善…。選手たちにとって1日1日、一瞬一瞬が次のパラリンピックに繋がる時間になっているかもしれない。

パラリンピックは、障害がある選手であれば誰でも目指すことができるわけではない。一定の基準に基づき、出場可能な障害の範囲・程度が決められている。つまり、障害があっても、基準の対象外の選手は出場することができない。

2022年1月、IBSA(国際視覚障害スポーツ連盟)は、視覚障害柔道のクラス分けのルールを大幅に変更した。視覚障害の視力と視野の基準についても変更し、弱視(J2)クラスの最低障害視覚基準(Minimum Impairment Criteria)は視力0.1以下から0.05以下に、直径視野は40度未満から60度以下になった。

このルール変更により、パラリンピックを含む国際大会への出場対象外となった日本人選手がいる。2021年夏の東京パラリンピックに、男子60kg級の日本代表として出場した平井孝明(41歳、熊本県立盲学校)は、その一人だ。

2012年のロンドン、2021年の東京と過去2回のパラリンピック出場経験のある平井にとって、ルール変更は、2024年のパリ大会を目指して準備を始めていた矢先の出来事だった。自分の意思とは関係ない形で、平井の目の前からパラリンピックという目標が消えた。

2023年5月。東京・水道橋にある講道館で開催された全日本視覚障害者柔道大会に、平井の姿があった。男子60kg級に出場し、初戦は得意の寝技に持ち込んで勝利し、トーナメントを勝ち上がった。決勝で敗れて2位となったものの、日頃の練習をしっかり積んで大会に臨んできているように見えた。

パラリンピックという大きな目標がなくなった今、平井は柔道にどのように向き合っているのだろうか。日々の練習のモチベーションを、どう維持しているのか。また、これから先、何を目標に柔道を続けていくのか。それとも、競技に区切りをつける時期を決めているのか。平井に話を聞いた。(聞き手:河原レイカ)

【Q】ルール変更により、パラリンピックを目指すことができなくなりました。先日、それでも柔道を続ける理由について尋ねたところ、平井さんの答えは「柔道が好きだから」でした。まず、はじめに平井さんと柔道との出会いを教えてください。

【平井】僕は、小学校から盲学校に通っています。盲学校の中学2年生の時に、柔道部の顧問の先生から、「柔道をやってみないか」と声を掛けられたことが最初のきっかけでした。

でも、最初は柔道に興味はなかったんです。それまで柔道の経験はありませんでしたし、どちらかというとボール競技が好きで、グランドソフトボール(ハンドボールを転がして行う野球)を面白いと思っていました。

ただ、当時の僕は、心の中では「嫌だな」と思っていても、それを言葉で表現できない性格でした。柔道部の先生から「見学だけでも来い」と誘われて、はっきり断れなかったんです。内心では「嫌だな」と思いながら、見学に行きました。道場に行ったら、今度は「やってみろ」と言われて。でも、体験してみたら、面白かったんです。

【Q】初心者向けの体験で、どんなことが面白かったんですか?

【平井】生徒みんなで号令の声を出して簡単な体操をして、それから受け身の練習をするくらいでした。でも、それが僕にはとても面白かったんです。それまでの僕は、大きな声を出したりすることがありませんでした。言葉で表現するのが苦手な子でしたから、まず、大声を出して運動できるのが面白かったんです。

それから、少しずつ柔道の技を教えてもらい、自分より体の大きい先輩と組んで投げ飛ばすことができるようになりました。日常生活の中ではできないようなことを、柔道の中では体験できるのがすごく面白くて、のめり込んでいった感じです。

【Q】中学校の部活動で柔道を始めて、そこから、より競技性の高いレベルを目指すようになっていったのですか?

【平井】高校1年生の時に、柔道部に新しい顧問の先生が来てくれたことが大きいです。新しい顧問の先生は、柔道のオリンピックのナショナルチームにいた方で、国際大会の経験もある方でした。すでに現役は引退していましたが、その先生が顧問になったことで部活動の練習の強度が一気に上がりました。先生は僕たち部員を近隣の高校や大学の柔道部の練習にも連れていってくれました。

中学生までは盲学校の部活だけで練習をしていたんですが、高校生からは一般の高校生と合同で、週1~2回練習するようになりました。一般の選手と一緒に練習できるようになったことは大きいですね。

それまでの僕は、柔道に限らず、何事についても視覚障害と結び付けて、「目が悪いから、僕はできないんだ」とか「目が悪いから、他人より劣っているんだ」という気持ちになってしまうことがありました。

でも、一般の人と柔道をしている中で、「目が見えているか見えていないかは関係ない」「練習すれば、目が見えている人にも勝てる」ということを実感できたんです。それは、僕にとって、すごく良かったです。

高校1年生の時、柔道部の顧問の先生からは、「まず、目標を立てなさい」と言われました。僕が思いついた大きな目標が「パラリンピックで金メダルを獲る」でした。ただ、この時は、パラリンピックへの出場やメダル獲得について具体的に考えていたわけではなく、漠然と立てた目標でした。

僕より4学年ほど上の先輩が、現在のアジア・パラゲームスの前身となるフェスピック大会に出場して、銅メダルを獲ったんです。一緒に練習している先輩がアジアの国際大会でメダルを獲得できるなら、僕もいずれは国際大会に出られるかもしれないと思うようになりました。それで高校2年生から、パラリンピックをより現実的に考えるようになりました。

高校3年生の時に、2000年開催のシドニー・パラリンピックの日本代表選考会に出場しました。負けてしまいましたが、それが、パラリンピック出場への最初の挑戦です。(後編につづく)