【第2回】
公紀の頭に白い手術跡が刻まれたのは、中学1年生の時だった。
クリスマスの翌日、12月26日月曜日の夕方。
学習塾の近くで横断歩道を渡ろうとした時、乗用車に跳ねられた。
一緒にいた友達は、車と衝突した公紀の体が空中を10mほど飛ばされるのを目撃したという。
コンクリートの地面に打ち付けられた体は大きな衝撃を受けたはずだが、首から下はほとんど無傷だった。地元のラグビーチームに所属して鍛えていたため、自然に受け身ができたのかもしれない。足の親指に擦り傷がついていたくらいだった。

しかし、頭の損傷が激しかった。前頭部、側頭部が地面に叩きつけられていた。
救急搬送された高崎市内の病院は、月曜日が脳外科の手術日になっていた。
その日に予定していた患者の手術時間が延び、3名の脳外科医が院内に残っていた。
そこに公紀が運びこまれ、一命を取り留めた。
事故による脳の損傷は、高次脳機能障害と呼ばれる脳の障害と、右半身に麻痺を残した。

公紀の場合、音は聞こえているが、誰かが声を掛けても、その声が頭の中で言葉と結びつかない。
自分に声を掛けられていることは分かっても、何を言われているのか、意味を捉えるのが難しい。
公紀自身も、自分の言いたいことを口から言葉にして出すことができない。
細かいやりとりをする会話は、口頭では成り立たない。
ただし、言葉を文字にすれば認識できる。
母親の由美さんから、筆談で会話が成り立つことを教えてもらい、
私はスマホのLINEやホワイトボードを使って話をしはじめた。
公紀からの返信は、主語と述語をつなぐ「てにをは」があべこべになることもあるが、
単語の意味を拾えば、言いたいことは汲み取れた。

2017年7月2日。
関東パラ選手権大会2日目、公紀は100mと400mに出場した。
観戦できなかった私は、大会が終わった頃を見計らって、公紀にLINEで尋ねた。
「公紀くん、関東選手権、お疲れさまでした。今日は観にいけなかったけど、どうでしたか?」
10分ほどして、返信が届いた。
「400mは62.73ベストが100m2位13.44です」
公紀は、100m、200m、400mを走る短距離選手だが、今シーズンは、大会に出るたびに自己ベストを更新している。冬季に体づくりをする基礎的なトレーニングに取り組んだことが、結果につながっているのかもしれない。
公紀自身は、走りに手ごたえを感じているだろうか。
LINEで、質問を重ねた。
「自分の走りに、満足できましたか?」
すぐに返信が来た。
「100mは0.01で悔しいです」
インターネットで検索し、関東パラ陸上選手権大会の競技結果を探すと、
100m(T37クラス)1位の出戸端望選手は13.43、2位の公紀とわずか0.01秒の差だった。
「悔しさをバネに、次にチャレンジですね」
激励のメッセージを送り、スマホを閉じた。

再び、スマホが震えた。
LINEが、新着のメッセージを受信したことを示している。
公紀のメッセージが届いていた。
「靴に大きい」
靴?靴って、一体、何だろう?
靴が問題だったのだろうか?
自分の足に靴が合わなかったのか。
大会でいきなり新しい靴を試すことはないはずだ。靴に思い当たることが出てこない。
もしかしたら、漢字の変換ミスだろうか。
靴ではなく、屈とか、口とか。それでも、意味がつながらない。
大きいにつながる言葉が見つからない。

私の疑問を、そのまま返した。
「靴???」
しばらく、間が開いた。
私と、公紀との間に大きな溝があり、公紀が投げてくれた言葉が、
その溝に落ちていってしまうような気がした。
私が投げ返した言葉が、溝に落ちずに、公紀に届いていることを願った。

スマホが震えた。
公紀の返信は、練習をサポートしている関口さんが代筆するかたちで届いた。
「0.01秒の差で負けたので、靴一足分だけど、
その差が大きいということが伝えたかったのだと思います(訳、関口)」
そうか。
それで「靴に大きい」だったのだ。
自分の言いたいことを関口さんに伝え、LINEに書いてもらっている公紀の姿を想像した。

彼は、私に伝えたかったのだ。
靴1足分の差。
1位の選手と自分との実力の差を。
そしてその差を大きいと感じていることを。

今夏、公紀は、日ノ丸のユニフォームを身に着ける。
海外の選手たちと競いあい、どんな走りをするのだろうか。
世界の舞台で走った時、何を感じるのだろうか。
パラジュニア世界陸上がもうすぐ、始まる。

(取材・執筆:河原レイカ)