「Japan」のユニフォームを身に着けた大谷翔平が、4回裏の打席を終えて、ベンチの裏に戻ってきた。

「くっそー。まじか、(ホームラン)いけたな」

コンクリートの打ちっぱなしの空間、壁際に置かれた椅子に腰を下ろした大谷は、汗ばんだ顔で宙を睨んでいる。頭の中にある何かをじっと見つめているようだ。座った姿勢のまま右腕を軽く後ろに引き、その腕を前に振り出しながら上半身をやや捻っている。バットを振る動きを再現している。

2023年春に開催されたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第5回大会。「侍Japan」と呼ばれる日本代表チームについて、選手の選考から優勝するまでを追ったドキュメンタリー映画「憧れを超えた侍たち」を観た。この映画の中で、私の印象に残ったのは、予選に位置付けられた第1次ラウンド、初戦の日本対中国の1シーンだった。

日本が1点リードして迎えた4回裏、大谷はヒットを放ち、塁上にいた2人の走者を返して3対0とした。追加点をあげた打席だったが、攻撃を終えて戻ってきた大谷は、自身のバッティングを振り返り、ホームランにできなかったことを悔しがっていた。彼の頭の中には、より良いバッティングのイメージがあったのかもしれない。4回裏の打席での動きと比べて、どこがどのように違ったのか確認し、修正を図っているように見えた。

■100m9秒台に匹敵するタイム

「Breakthrough(ブレイクスルー)」は、行き詰まりや難関の突破、打開、技術の飛躍的な進歩、躍進を意味する言葉だ。パラ陸上の車いす(T54クラス)の短距離選手で、2023年の今シーズン、この「ブレイクスルー」という言葉が似あう活躍を見せているのが生馬知季(31歳、GROP SINCERITE WORLD-AC所属)だ。

生馬は今年5月、スイスで開催された国際大会(Swiss Nationals大会)の100mで13秒93という記録を叩きだし、従来の日本記録14秒07を8年ぶりに塗り替えた。日本人選手初の100m13秒台。これは健常者の100m9秒台に匹敵するタイムだと言っても過言ではないだろう。

生馬が記録した13秒93は、2021年夏に開催された東京パラリンピック4位のタイムに相当する。世界的にみても今シーズン(8月現在)100mで13秒台を記録しているのは生馬を含めて5人の選手だけだ(世界パラ陸上競技連盟:WPA公認大会での記録を基に作成されるランキング参照)。

ただ、生馬は、パラ陸上界に突如現れた新星ではない。

20代から短距離100mの有力選手として注目されており、パラ陸上の国内大会では常に上位に入っていた。しかし、日本人の中ではトップクラスでも、世界選手権やパラリンピックなど国際大会で上位に入るには、もう一段、高いレベルでのパフォーマンスが求められる。実際、生馬は2021年の東京パラリンピックに初出場したものの、100m予選2組の6着、タイムは14秒50に終わり、決勝に進出することはできなかった。

東京パラリンピックの100mは予選が計3組実施され、各組上位2着までの選手と、それ以外の選手からタイム順で2選手の計8選手が決勝に進出した。生馬が出場した予選2組の1着(13秒85)と2着(13秒96)は13秒台。予選計3組中タイム順で決勝に進出した残り2選手は、14秒17と14秒19だった。

結果から見ると、東京パラリンピック100mの決勝に進出するには14秒19以内、さらにメダルを獲得するには13秒台が必要だった。東京パラリンピック100m予選の生馬のタイム14秒50は、決勝進出にはほど遠いものだった。

東京パラリンピックから2年が経った。2023年は、来年夏に開催されるパリ・パラリンピックへ向けた準備が進むシーズンだ。パラリンピックで実施予定の各競技・種目において、パリ・パラリンピックへの出場するための権利(出場枠)獲得のため、選手たちはしのぎを削る。今シーズン、大幅に記録を伸ばし、国際大会で上位に食い込んだ選手は、パリ・パラリンピックでの活躍を期待される注目株となる。

そんなシーズンに、陸上競技歴10年以上の生馬にブレイクスルーが起きた。

何か特別なトレーニングをしてきたのか。陸上競技用車いす(レーサー)を漕ぐ時の動きがこれまでとは違うのか。それともレーサーの素材や形状を変えたのか。

13秒台を出したスイス遠征から帰国して間もない6月、岐阜県で開催されたジャパンパラ陸上競技大会に出場した生馬に、取材陣から100m13秒台の記録を出せた要因を尋ねる質問があった。

「正直なところ、練習内容を変えたところはないんです」

生馬は、レーサーの座席で背筋を伸ばし、質問した記者のほうに顔を向けている。ぱっと見ただけの印象だが、昨年のシーズンと比べて、身長や体重が大幅に変化したわけではなさそうだ。レーサーを漕ぐ際に使う上半身、胸周りや腕の太さも大幅に変わったように見えない。

「僕は、チームの監督からずっと13秒台を出せる力があると言われていたんですけど、自分のタイムと比較して遠いと感じていて、本当に自分にそんな力があるのかと思うところがあったんです。それを、監督の言葉を信じて…」

生馬自身にとって、13秒台は、頑張れば手に届きそうだと思えるタイムではなかった。自分の実力から考えると「遠い」とさえ思っていた。そんなタイムを、実際に出したのだ。

 目に見えない部分、心理的な面で何か変化があったということだろうか。自分の力や可能性を信じることは、確かに大切なことかもしれない。ただ、気持ちの持ちようがそれほどの好調をもたらすものなのか。もっと別の要因が何かあるのではないか。練習内容を変えていないとしたら、一体、何がブレイクスルーをもたらしたのだろう。

生馬はレーサーに乗ったまま、取材陣の質問に答えている。

その声をしっかり録音しておこうと、私はICレコーダーを持つ手を生馬のほうへ伸ばした。

■100m決勝6位に「手ごたえ」

2023年7月、フランス・パリ。

シャルレティ競技場で開催された世界パラ陸上競技選手権大会。100m決勝を終えた生馬が、取材者たちが待つミックスゾーンに姿を現した。決勝は6位、タイムは14秒23だった。決勝のレースについて感想を求めると、生馬は質問した記者の顔をまっすぐ見ながら話し始めた。

「100mの予選では動きの硬さが出て、自分らしい走りができていませんでした。それが、この決勝では払拭できて、大幅なタイム短縮につながってくれたと思います。まだまだ世界のレベルが高いというのは感じましたけど、自分の走りとしては出し切れた感じがあります」。

スマートフォンで大会の公式ウェブサイトを開き、速報で出されている100m決勝のタイムを確認した。生馬の100mの予選のタイムは14秒61、それが決勝では14秒23に縮まっていた。

100m決勝の1位は13秒64、2位13秒77、3位13秒84となっていた。今大会でメダル獲得を狙うなら、13秒台を出す走りが必要だった。一方、4位以下は14秒06、14秒21、そして6位生馬の14秒23、14秒52、14秒57と続いていた。

生馬自身も今年5月に出した13秒93を更新するような走りができれば、メダルを狙えたかもしれない。だが、生馬の13秒台はスイスのArbonにある競技場で出したものだ。Arbonの競技場は、車いすの選手たちの間では「高速トラック」として知られている。この競技場で走った選手の多くが、他の競技場よりレーサーのタイヤがよく回転し、スピードが出やすいと口にする。100m13秒台を好条件の競技場だけでなく、他の競技場でも出せるようになるには、さらに一段上の力が必要なのかもしれない。

走り終えたばかりの世界選手権100m決勝について話している生馬は、悔しさよりも、手ごたえを感じている口ぶりだ。決勝のタイム14秒23について、自分の力を出し切った結果だと受けとめ、満足しているように見える。

私は、生馬のほうへ向けたICレコーダーを握りなおした。彼は、何かを掴んでいる。10年以上競技を続けてきた生馬が、これまでとは違う何かを掴んでいる気がしてならない。

■さらなる飛躍へ

 2023年8月、東京。連日35度前後を記録する酷暑が続いている。

午後の時間帯は屋外で活動するのは熱中症の恐れがあって危険だ。近隣のコンビニまで10分ほど歩いただけで、背中に汗が吹き出し、Tシャツが肌に張り付いた。

 私は、冷房を聞かせた部屋でiPadを開いた。AmazonPrimeVideoで配信が始まったWBCの映画「憧れを超えた侍たち」の再生ボタンを押す。「Japan」のユニフォームを着た大谷翔平がチームに合流し、やがて第1次ラウンドの初戦、日本対中国の試合が始まった。

タブレット端末の画面の中の大谷翔平は、ベンチ裏の椅子に腰かけている。座った姿勢のまま、腕を引いてバットを振る動きをしている。頭の中にある動きのイメージ、実際の動き、イメージを自分の身体で再現するための動作の確認・・・。私の記憶の中にあった何かが引っかかった。

 ちょうど1カ月前に渡航したフランス・パリも暑かったが、東京とは違った。気温は高くても湿度は少なく、屋外の陸上競技場でも日陰に入れば、涼しかった。

あのパリの100m決勝で、生馬は、予選の走りには硬さがあり、決勝の走りではそれを払拭できたと話していた。走り終えてミックスゾーンに入ってきた生馬は、予選で「できなかった」ことが、決勝で「できた」と言っていた。予選がスタートしたのは7月15日午後18時45分、決勝は同日の21時20分過ぎだった。予選と決勝の2時間半ほどの間に、生馬は自分の走りを振り返ったのだ。

鞄の中に入れているICレコーダーを探し、パソコンのUSBポートに差し込んだ。録音ファイルを探すと、6月に開催されたパラ陸上の国内大会で録音していた生馬の声が出てきた。

「これまでと練習内容は変えていないんですけど、漫然と練習するのではなく、ハンドリムを漕ぐ時の繊細な感覚だったり、そういう意識を今までよりも持つようになりました」。

レーサーの漕ぎ手に添えた両手を勢いよくぐっと下に押し出すスタートの1漕ぎ、前半30mまでの加速、中盤から100mのフィニッシュ地点に掛けてトップスピードに載せる走り伸び…。

パリの世界選手権100mで、生馬は予選の走りを振り返り、好記録を出した時の走りと比較して、その差を掴んでいたに違いない。そして、決勝の舞台で、自分の走りを修正することができたのだ。

「ブレイクスルー」を引き起こすものは、何か?

「これだ」と特定できるような要因は、見つからない。

レーサーの上での正しい姿勢、肩回りから上腕にかけての筋肉量や動きの柔軟性、肘を後ろに引いた後、両腕を上から下に振り下ろすようにしながら車いすの漕ぎ手を両手で押しだす動作の機敏さ、スタート前に不安や緊張をコントロールできるメンタルの強さ…。車いす陸上のトラックレースに関わる様々な要素の一つひとつが、ジグソーパズルの1ピースのように思えてくる。これらのピースがピッタリはまった時、好記録につながるのではないか。

ピースを上手にはめていくには、日々の練習の中で、自分自身の走りの動作について観察し、振り返り、より良い動作を目指して修正を重ねていくことなのかもしれない。

自己ベストのタイム100m13秒93は、生馬にとってパズルの完成形ではないはずだ。来年のパリ・パラリンピックで、さらにもう1段、高いレベルで走ることを目指している。そのためのピースをはめていく作業を、生馬はすでに始めているかもしれない。(了)

(取材・執筆:河原レイカ)

(写真提供:小川和行)