羽根裕之さん(写真中央)。写真左から、キャンさん、ゴンさん、羽根さん、サイさん、ポンさん。 練習場近くの民間のプール、ジム(国の援助で無料使用)にて。

羽根裕之さん(写真中央)。写真左から、キャンさん、ゴンさん、羽根さん、サイさん、ポンさん。
練習場近くの民間のプール、ジム(国の援助で無料使用)にて。

陸上(走り幅跳び・三段跳び/上肢障害・T46クラス)の選手である羽根裕之さん(50歳)は、2015年11月より、東南アジアのラオス人民民主共和国(ラオス)で障害者スポーツの支援に携わっている。
ラオスは、ミャンマー、ベトナム、カンボジアとの国境を持つ内陸国。
アスリートである羽根さんは、なぜ、ラオスの障害者支援に取り組むことになったのか。ラオスの障害者スポーツの現状や、これからの目標などについて話を聞いた。

■日本の冬の寒さに辟易し、海外移住を検討

3年ほど前になりますが、日本の冬の寒さが、自分の身体にとても厳しく感じられるようになりました。
当時は、会社員として仕事をしながら、障害者陸上・健常者(マスターズ)の選手として競技に取り組んでいたのですが、冬の寒さから無縁の場所で生活や仕事、競技ができたらどんなに楽だろうと考えるようにまでなりました。
選択肢として海外移住があり、移住の候補としては、東南アジアが思い浮かびました。
しかし、海外移住するには金銭面で問題がありました。当時は住宅ローンの返済中でしたし、それに加えて海外移住の費用となると難しかったです。よいアイデアが浮かばないまま、海外移住の計画は一時中断となり、そのまま冬の寒さに辟易しながら過ごしていました。

そのころ、知人を通じて自分の人生をテーマにしたインタビューを受ける機会がありました(アナザーライフhttps://an-life.jp/article/155)。その時に、私の今後について質問され、改めて考えたときに、東南アジアで障害者スポーツを指導したいという思いを持っていたことに改めて気がついたんです。

■陸上競技が、荒れた生活から立ちなおるきっかけに

私は、高校時代は陸上競技で活躍していました。社会人になり、実業団に所属していたこともあったんですが、契約などがうまくいかなくなって、その後、陸上は辞めてしまいました。
2003年6月に、運送会社で仕事をしていた時の事故で左腕を切断しました。 それから自暴自棄になり、荒れていた時期があります。
しかし、改めて陸上競技を始めたことで、目的意識が芽生え、目標達成までの手段を考え、実行することができるようになりました。
自分で考え、実行することで、着実に進歩していくことを実感できるようになったんです。すると視野が広がりました。
競技をするにはお金が必要なので、仕事への意欲も生まれ、国内外の大会へ遠征なども参加できるようになりました。
不思議なもので、陸上競技以外のことにも興味が拡がるようになり、身分不相応と思われる場所へもダメ元で応募して、参加の快諾を頂いたり、人間的にも成長していると感じるようになりました。
為末大さんらが代表理事を務めている一般社団法人アスリートソサエティの活動にも参加させていただく機会を得ました。

人生、何が幸いするか分かりません。
受傷して、受傷前よりも、人間的に成長できた自分が誕生したのです。
そういうことに気がついて、私が人生で経験してきたことを、まだ障害者の立場が弱い東南アジアの国へ伝えることが、私の使命ではないかと強く思うようになりました。

改めて、東南アジアへの移住を考えるようになり、海外生活で住居の費用が掛からなければ、金銭面の問題は解決できると思いました。
アスリートソサエティで知り合った写真家に相談すると、私の熱意を汲み取ってくださり、JICA(国際協力機構)や、さまざまな支援団体の連絡先を教えてくれました。それから、自分でも情報収集するなかで、特定非営利活動法人アジアの障害者活動を支援する会(ADDP http://www.addp.jp/)を知りました。
ラオスで障害者の就労支援とスポーツ振興に取り組んでいるADDPの理念は、私の思いと見事に一致しました。私の思いを伝えたところ、ADDPの方も、私に興味を持ってくださり、ラオスで活動する場を提供していただけることになりました。

2015年1月には、ラオスの全国障害者スポーツ大会へ視察をかねて訪問しました。この大会をみて改めて、ラオスの一助になればとの思いが強まりました。
ところが、またしても、試練がやってきます。なんと、病気になってしまったのです。
国の難病指定になっている多発性筋炎・多発性肺炎で3カ月入院し、1カ月自宅療養をしました。ADDPには、私の気持ちに変化はなく、ラオスの一助となるよう渡航したいという希望を伝えました。最終的にADDP側が受諾してくださり、2015年11月にラオスへ渡航しました。

ラオスの選手たちが練習場にてしているスタジアム。右端の白い壁の建物がスポーツ省の建物。

ラオスの選手たちが練習場にてしているスタジアム。右端の白い壁の建物がスポーツ省の建物。

初動負荷を体感させる狙いで行っている練習。日本ではゴム製の道具が市販されているが、ラオスでは道具がないため、毛布を代用して上手く利用している。

初動負荷を体感させる狙いで行っている練習。日本ではゴム製の道具が市販されているが、ラオスでは道具がないため、毛布を代用して上手く利用している。

手作りのウエイト器具。 物資不足は工夫で補っている。

手作りのウエイト器具。
物資不足は工夫で補っている。

■ラオスの障害者スポーツの現状

ラオスでは、まず、2015年12月にシンガポールで開催されたASEAN Para Games(アセアンパラゲームス シンガポール大会)へ向けて、出場する選手たちにアドバイスをしました。
ただし、ラオスの選手たちに対しては、ラオスの指導者が練習内容を指導していますので、私は練習内容等には一切触れず、選手の動きをチェックし、矯正、修正するという手法を取っています。
アセアンパラゲームスは、ラオスの国のバックアップがあったので指導者や視覚障害の選手の送迎を用意してくれました。
アセアンパラゲームスは、日本人には馴染みがなく、情報もない状況で、大会のレベルが全く分かりませんでしたが、実際に観戦するとレベルの高さにビックリしました。日本人選手が参加して国別で1位を取るのは難しいとさえ思えましたし、個人競技でも何人が金メダルを取れるか分からないくらいの高いレベルです。

ラオス代表選手は、重量挙げで銀メダル1つ、銅メダル2つ、ゴールボールの女子チームが銀メダル、陸上女子(視覚障害・T13クラス400m)が銅メダル1つを獲得しました。メダルが獲れなかった種目も、結果ほど、実力の差は感じていません。戦略面を充実させれば、もっといい勝負ができるように感じています。
ただ、他国も同様に考えていると思います。大会前の直前練習では歯が立たないことは、今回のアセアンパラゲームスの結果で分かりましたので、普段からの練習の積み重ねが重要と考えています。
アセアンパラゲームスを観戦して、アセアン地域は、今後、IPC(国際パラリンピック委員会)主催の大会に、どんどん選手を出場させてくることが予想されます。日本もそのうちに逆転されると思っています。

しかし、ラオスでは、大会終了後はバックアップなどは一切ありません。バリアフリーや移動手段の整備などがまったく進んでいないので、視覚障害者、車いすでの移動は容易ではありません。選手個人が練習できる場所まで通うことは難しい状態です。
ラオスの国内でも、地方では、まだ、障害者がスポーツをするということそのものが理解されていないと聞いています。障害者は、家で引きこもり傾向にあるようです。指導者に関しても、省庁(スポーツ省)の人が行なっているので、絶対数が不足しています。

アセアンパラゲーム T13クラス・女子400mのメダリスト・ポンさん(写真右)と、コーチのトゥンさん。

アセアンパラゲーム
T13クラス・女子400mのメダリスト・ポンさん(写真右)と、コーチのトゥンさん。

■障害者スポーツの指導者育成に取り組みたい

今後は、プロジェクトの本丸でもある指導者育成に取り組みたいと思います。
障害者スポーツがまだまだ普及していないので、過疎地区などでも指導者がいれば障害者も運動する機会に恵まれると思います。
少しでも身体を動かし、健康的な生活が送れるようになり、それにより就労へと結びつくという良いサイクルができるといいですね。
また、指導者が増えて質も上がることを期待しています。ゆくゆくはアセアン地域でも、ラオスがスポーツ先進国になり、指導者育成のイニシアティブをとり、他の国に啓蒙できる立場になれるといいと思います。

ラオスの人々には、私が経験したように、スポーツを通じて、目的を持ち、人間的に成長し、さらにQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の充実につながることを願っています。
私が経験した素晴らしい出来事を、次世代の人にも経験してもらえるようにつないでいきたいです。「障害者で、良かった!」と思えるような人生になってほしいと思っています。
2020年の東京パラリンピックへ、ラオス選手が出場できたら最高ですね。
年齢や障害、性別など関係がないインクルーシブなスポーツのクラブ活動・教室が、ラオス全土で開催されたら嬉しいです。

■「出会えてよかった」と言われるように

「あなたに、出会えて良かったよ!」って言ってくれる人が、一人でも多く増えたら嬉しいです。
私自身は、受傷、離婚、病気となかなか波瀾万丈です。しかし、それらを経験したことですべて良い方向へ向かっています。そういう人間もいることを、少しでも分かってもらえたら、同じような境遇の人の希望につながると思います。
日本でも、ラオスでも、自分が持っているものを他の人や社会に上手く還元できる人材が育ってくれたらと考えています。
念願だった海外での障害者スポーツ支援に携わっているので、今は、この取り組みが上手く進めばいいと考えています。
私個人の夢や目標は、今後の宿題ですが、2015年は病気のために陸上の大会に出場できなかったので、2016年は選手として、一つくらい大会に出場したいと密かに考えています。

まだまだ、50歳。
夢は叶わないほうが多いですが、夢の実現を目指して、夢中で向かっていくプロセスがとても素晴らしいし、それが重要なことだと思うのです。
老け込んでる暇はありません。「進化するおっさん」を地でいきたいと思っています。

【プロフィール】
羽根裕之(はね・ひろゆき)さん
1965年生まれ。身体障害者陸上(上肢障害)マスターズ陸上(M45)の陸上選手。専門種目は、走幅跳び・三段跳び。
中学3年時、陸上大会に借り出され、県総合大会で800m優勝。木更津中央高校に進学し、400mハードルでジュニアオリンピック5位入賞、千葉県大会記録など樹立。
その後、社会人で1年間競技を続けるも、目標を見失い、競技とは無縁の生活を送る。
2003年に事故により、受傷し、左腕を切断。左上肢機能全廃の身体障害者になり、再度、陸上競技に目覚める。
【障害者の部】
2007年IWAS(International Wheelchair & Amputee Sports Federation)世界選手権(台湾大会)にて、三段跳び2位、走幅跳び4位。三段跳び、走り幅跳び両種目で、当時の日本記録樹立。
2012年 IWAS世界選手権(UAE大会)にて走幅跳び6位、三段跳び10位。
2012年ロンドンパラリンピック三段跳びB標準記録突破。ロンドンパラリンピック強化指定選手。
【健常者の部】
2012年アジアマスターズ選手権(台湾大会)
三段跳び2位、走り幅跳び3位
2013年千葉県マスターズ陸上M45クラス三段跳び 千葉県記録更新(20年ぶりの更新・障害者が健常者の記録を塗り替えた)

(2016年1月 取材・構成:河原由香里)