パラ陸上・T54クラス 生馬知季選手

パラ陸上・T54クラス
生馬知季選手

【第2回】
2019年11月7日。
アラブ首長国連邦の首都ドバイで、パラ陸上世界選手権が開幕した。
大会初日の午前中に実施された男子・車いすT54クラス100m予選には、計28人の選手がエントリー。7人の選手によるレースが計4組実施され、各組上位3選手が決勝に進出。3着に入れなかった選手の中から、タイム順に4人拾われて、準決勝に進出した。

生馬知季は、予選3組に出場し、2着で準決勝進出を決めた。タイムは14秒37。
「今季では、まずまずのタイムです」
レース後、生馬は報道陣の問いかけに、こう答えた。
それほど緊張せず、号砲とともにポンと前に飛び出すことができた。
自分自身の走りに集中できていた。

「今大会の最低ラインは、決勝に上がること。そして、さらにその上を狙います」。
予選の走りで好調を感じとったのかもしれない。
まずは、予選から準決勝へ。
生馬は、目標達成へのステップを一つ上がった。

7日午後19時をまわり、パラ陸上世界選手権は大会初日、夜の部を迎えた。
太陽光のもとではスカイブルーに見えたタータンは、照明灯に照らされると青白く見え、冷たさを感じさせる。スタートの白いラインに、選手たちは陸上競技用車いす(レーサー)の前方についている小さい車輪を揃えた。

これから始まるT54クラス男子100m準決勝は8人によるレースが2組実施され、各組上位3着までの選手が決勝に残る。着順で3着までに入れなかった選手のうち、タイムが良かった2選手が拾われ、決勝に進む。
つまり、決勝に進出できるのは8人、準決勝で半数の選手が落とされる。

観客席側のカメラが、スタートラインに並んでいる選手たちをとらえている。
前傾姿勢になった選手たちの色とりどりのユニフォームの背面が見える。
中国の赤、オーストラリアの黄、フィンランドの水色、イギリスの白と青…。日本のユニフォームは、赤をベースにして、両腕の肩から手首にかけて紺のラインが通っている。

スタート前、選手の動きは様々だ。
いったん上半身を起こし、尻を揺するように動かしてレーサーの座面に置いた臀部の位置がしっくりきているかを確認する者。
深くお辞儀をするように前傾し、車いすの両輪の外側に両腕にだらりと垂らして、緊張を解いている者。
両手のグローブがしっかり嵌まっているか、改めて確認する者…。
特定の動きを習慣のようにしている者もいれば、その時々で動きが変わる者もいる。

生馬知季はハンドリムに手を添えたまま、伏せるように上半身を深く前傾している。
黙想しているのか、微動だにしない。
国内のパラ陸上大会の時と比べると、少し入念に意識を自分自身に向けているように見えた。

一人の選手が、ハンドリムの最初の一漕ぎの押し出す位置に両手を添えた。
一人、そして、また一人が両手を置いていく。
選手全員の両手がハンドリムの上に置かれると、2階の観客席の喧噪が一気に萎んだ。
「セット」
静まりかえったトラックに、少し甲高い男性の声が響いた。
選手たちは、一斉に動きを止めた。
前傾姿勢になった選手たちは、顔が地面のほうへ向いている。
観客席から彼らの表情を読み取ることはできない。
ただ、号砲が鳴るのを待つ背中に、ピンと張り詰めた空気が漂っていた。

号砲が鳴ると同時に、観客席から一人の女性が叫んだ。
選手の名前を呼んだようだが、悲鳴のように聞こえて誰に向けた声援なのかわからない。
生馬は、ぐっと、ハンドリムを押し出した。
序盤で出遅れるわけにはいかない。
レーサーの加速の波に乗せ、中盤では今季最高の波に乗せるようにして走りたい。
ぐっ、ぐっとハンドリムを押して漕ぎ、両輪の回転数を上げていく。

生馬の右隣り、7レーンから水色のユニフォームの選手が序盤から勢いよく前へ出た。
低い前傾姿勢を保ったまま、漕いでいる。
2漕ぎ、3漕ぎとハンドリムを押し出す度に、他の選手より前輪1つ分、2つ分、前へ前へと出ていく。
上半身を電車の車体に見立てると、両腕がレーサーを漕ぐ動きは、蒸気の圧力を車体の推進力に変えて走る蒸気機関車の車輪の動きを想像させた。

生馬はハンドリムを押し出して漕ぎを重ねている。
しかし、隣のレーンの選手が速いのか、スタートから10mも過ぎない序盤から差が開き始めた。
スタートから序盤、中盤にかけて速度を上昇させていくところだが、生馬のレーサーの両輪が重く見える。
隣のレーンを走る選手のレーサーの速度が、生馬の速度よりも上回っている。
先頭の選手は、ゴールラインの少し手前で漕ぐ手を緩め、余力を残してフィニッシュした。2着、3着の選手は最後まで漕ぐ手を緩めず、決勝進出となる3着以内を確実に獲りにいった。

生馬は、前を走る選手たちを追いかけるように漕いでいる。
3着以内が無理なら、タイムで決勝進出を狙うしかない。
0.1秒、いや0.01秒でもタイムを削りたい。
生馬は、懸命に漕いだ。

生馬の着順は4着。
タイムは14秒54。
決勝進出となる3着以内を逃したが、タイムで拾われる可能性を残して、準決勝2組目の結果を待った。
しかし、準決勝2組目の4着、5着の選手のタイムは14秒27だった。
彼らの決勝進出が決まった。

生馬は、準決勝敗退。
ドバイの世界選手権で東京パラリンピック100mの日本代表推薦を決めることはできなかった。(つづく)

取材・執筆:河原レイカ
写真提供:小川和行