Dubai 2019 World Para Athletics Championships 木山由加選手

雨天が続いた7月が終わり、8月に入ると連日35度前後の気温が続いている。

カーテンを開けると、眩暈がしそうなくらい強い光が降り注いでいた。隣家の庭の松の木から、自らの存在を強調するような蝉の声が聞こえている。屋根と屋根の間に、くっきりした青い空と、折り重なるようにして上へ伸びている入道雲が見えた。 視界に入ってくる風景も、体感している気温も、夏のものだ。季節は真夏になっている。何度もそう思ったはずなのに、私はまだ、夏だという実感が沸かない。

新型コロナウイルス感染症の影響で、2020年3月から会社に通勤することがなくなり、ずっと在宅で仕事をしている。電話やメールが増え、オンラインの会議システムをミーティングで使うようになった。パソコンの前にいる時間が、以前よりも1日平均2時間以上増えている。

街中に出かけることを控え、友達と会食することはほとんどなくなった。月に2~3回は足を運んでいた映画館にも、ずいぶん行っていない。県をまたぐ移動を自粛した結果、今年に入ってから趣味の登山もしていない。

これまで、何のためらいもなくできていたことが、できなくなった。新しい生活様式に慣れようとしてきたが、ずっと居心地が良くない。地に足がついていないふわふわとした気持ちのまま、毎日が過ぎていた。

つい先日まで、ダウンジャケットを羽織って、街を歩いていた気がする。近所の公園の桜が満開になったのを見上げた気がする。その都度、その都度、「冬だ」「春だ」と思ったはずなのに、しばらくすると季節の実感がどこかへ抜け落ちた。

 「ご無沙汰してます」

半年ほどの期間、音信不通になっていた木山から8月下旬、LINEが届いた。。

ようやく、自分の気持ちをブログに書くことができたという連絡だった。私は、彼女のブログの最新のページを開いた。

『東京パラに出られなくなったとパラ陸連より聞かされた時は、ただただ悔しく、涙が止まりませんでした』

『目指してきたものが急に無くなってしまった時の喪失感と脱力感でしばらくの間抜け殻のようになっていました。(中略)たくさんのメッセージを頂いたのですが、東京パラに懸けてきた思いが強かっただけにすぐに気持ちを切り替えて、次頑張ります!とは言えなかったし、今でもあの時の悔しさが思い出されて辛くなる時があります』

彼女のブログには、暫くの間、陸上競技用車いす(レーサー)に乗ることや、見ることさえも嫌になってしまったと書かれていた。

気持ちの整理が完全についているわけではないことを滲ませながら、彼女は、『それでも』と続けていた。

『また走りたい!と思えるようになってきたので、身体の調子を見ながら少しずつトレーニングを再開しています。まだ、2024年のパリ・パラ(パリ・パラリンピック)に向けて競技をするのかどうかは正直分からないのですが、風を切って走ることが好きなので、どんな形であっても走り続けたいと思っています』

私は、胸の付近で止めたままになっていた息を、ふうーっと吐き出した。「ほっとする」と言うのは、こういう状態を指すに違いない。緊張が解けて血の巡りが急に良くなり、身体が一気に軽くなった気がした。

『また、自分に何ができるのか?を考えたとき、これまで通り、海外でのレースに出場し、T52の存在をアピールしながら、新しい選手を探したり、種目存続について訴えたりしていきたいと思っています』

木山は、半年近くの時間をかけて、答えを見つけていた。そして、新たな目標を掲げていた。

窓の白いカーテンがふんわりと揺れ、数センチ開けていた窓の隙間から蒸気のような風が入ってきた。首元にうっすら汗ばむのを感じ、私はエアコンの温度を1度下げた。酷暑はまだ、しばらく続きそうだ。

会社の給湯室で、木山からの電話を受けたのは冬だった。暖房が効かない部屋で足元が冷えて、スマホを持つ手がかじかんでいた。

掲げていた目標が消えたあの日から、新しい目標を書いたブログを公開した今日までの、木山の日々を想った。

「本当に残念だったね」では、軽すぎる。

彼女に対して「これからも頑張って」なんて、気軽には言えない。

ただ、木山は、また走るつもりだ。

季節は間違いなく、移り変わっている。(了)

※木山由加選手の公式ブログ
https://ameblo.jp/kiyama-yuka/

本文中、木山選手のブログからご本人の承諾を得て一部改変、引用させていただきました。

※日本パラ陸上競技連盟は、2020年3月24日付で、女子T52クラス100mが2020年の東京パラリンピックの実施種目から除外された経緯を知らせる文書を出している。

https://jaafd.org/wp-content/uploads/2020/03/T52setumei.pdf

(執筆:河原レイカ)
(写真提供:小川和行)