Dubai 2019 World Para Athletics Championships 2019/11/11 Dubai Club for People of Determination

「何も言えないですね…」

2日前に行われた800m決勝の後。

最下位となったレースの後で、鈴木が口にした言葉だ。

ICレコーダーで何度か聞き直した鈴木の声には、途方に暮れたような響きがあった。海外の強豪選手たちとの実力差を思い知ったに違いない

あれから、鈴木は、何を考えたのだろう。

800mの自分の走りを分析し、両腕の上げ下げの動き、ハンドリムを押し出す時の手の角度や力の入れ具合など一つ一つの動作を見直したのだろうか。

しかし、わずか2日間で、力の差が縮まるものではないだろう。

これから始まる1500m決勝で、鈴木は再び、海外の強豪勢に打ちのめされてしまうのか。それとも、一矢報いるような走りをするのか。

テレビ画面に映し出された鈴木の表情に変化はない。感情をあまり表に出さない、いつもの鈴木に見える。

号砲が鳴った。

8レーンから、スイスのマルセルが勢いよく飛び出した。自分のレーサーを漕ぎながら、5レーンのアメリカのダニエルのほうを振り返った。マルセルが先頭だ。その後ろに、ダニエルがぴたりとついている。

2レーンの鈴木はまっすぐに飛び出し、ダニエルの後ろに入った。

先頭から3番手だ。

報道陣が待機しているミックスゾーンを、数人の選手が通過していった。鉄筋の支柱で建てられたテントへ向かっている。屋根と壁に白い布地が使われており、テントの中の様子は見えないが、競技を終えた選手が着替えたり、レーサーから日常生活用の車いすに乗り換えるために使われている。

テントの周りで選手が出てくるのを待っている人たちは、コーチかスタッフのようだ。テントから出てきたTシャツ姿の選手が、彼らの顔を見て、「お待たせ」とでもいうように片手を挙げた。

競技場のトラックから出てきた鈴木が、ゆっくりとミックスゾーンに近づいてきた。記者たちの列のちょうど正面にレーサーを静止させ、被っていたヘルメットを外して地面に置いた。ユニフォームの袖で額の汗を拭っている。上半身の背筋を伸ばすと、鈴木は記者たちを見上げた。

「どうぞ、質問してください」

言葉にはしていないが、鈴木の視線が質疑の開始を促している。

私は、背後に立っている記者の邪魔にならないよう腰を下ろした。私の視線の位置は、レーサーに乗った鈴木の座高に近くなった。

パラ陸上世界選手権、鈴木の種目すべてが終わった。

鈴木は、口もとに微笑みを浮かべていた。

これまでに、あまり見たことがない顔だ。

鈴木は、なぜ、微笑んでいるのか。

楽しくて、仕方がない。

楽しんでいることを隠し切れない。

いや、隠そうとせず、そのまま表に出しているのかもしれない。

黒い瞳が、質問する記者の顔をまっすぐとらえている。答えを口にするまでのわずかな瞬間、微かに動く瞳の奥で、何かが弾んでいるように見えた。

「1500m決勝に関しては、最大限アピールすることができました。今、出せる力は出し切ったと思います。スタートしてから、ダニエル選手の後ろ、3番手で走ることは、これまでは絶対に狙えなかったところだったと思います。今大会でそこに食らいついていくことができたのは、今季に取り組んできたトレーニングの成果だと思っています」

鈴木は、満足している。

1500m決勝のレースは、自分の力を出し切ることができたと評価している。だから、微笑んでいるのか。

「世界の強豪に匹敵するくらいのスタート力が付いてきたというところは、一つ、評価するポイントです。あとは持久力をつけなければいけない。まだまだ力負けしているというところを再確認することができました」

鈴木は、満足しているだけではない。

自分の足りない点を挙げている。「再確認」というのは、以前にも確認して知っていたからに他ならない。海外の強豪選手との力の差は事前に把握しており、それを改めて確認できたということだ。

そのことが、楽しいのか。

いや、自分の走りを分析し、何が足りないか、課題を整理することは、これまでの大会でも鈴木がやってきたことだ。今回の世界選手権で、改めて確認できたことがあったとしても、彼にとって特に珍しいことではないだろう。

鈴木は、続けた。

「これだけトップ選手が集まる最高峰の大会で、競技を楽しむことできました」

2020年の東京パラリンピックの前哨戦と位置づけられる世界選手権。800mと1500mで決勝に残ったものの、鈴木の結果は、両種目ともに8着だ。

表彰台に上がる鈴木の姿を見ることを期待していた人は、この結果について「残念だ」というかもしれない。開幕日まで1年を切っていることを念頭に、「2020年の東京パラリンピックでのメダル獲得は難しい」と予想する人もいるかもしれない。

ただ、世界選手権を終えた今、鈴木は、「競技を楽しむことができた」と言っている。

私の前にいる鈴木は、微笑んでいる。その微笑みは柔らかい。ただし、誰にでもできる微笑みではなさそうだ。

硬い決意を胸に、何かを深く追求し、突き詰めた者にだけ与えられる、そんな微笑みだった。【了】

※ 新型コロナウイルス感染症の影響により、2020年東京パラリンピックは、2021年に開催を延期された。日本パラ陸上競技連盟は、すでに東京パラリンピック日本代表推薦を内定していた選手について、原則、そのまま推薦する考えを示している。

(取材・執筆:河原レイカ)

(写真提供:小川和行)