Dubai 2019 World Para Athletics Championships 2019/11/09 Dubai Club for People of Determination

パラ陸上世界選手権大会3日目、11月9日。

車いす男子T54クラス800m決勝は夜の部、20時に予定されていた。そのレースに間に合うよう、私は渡航スケジュールを組み、羽田からドバイへ発った。

現地時間9日朝7時すぎ、ドバイの国際空港に着陸して間もなく、私はスマホのWifiをつなぎ、大会ウェブサイトに掲載されている競技結果を確認した。鈴木は800m予選を通過し、決勝に進出していた。

私と同じ便でドバイに到着した乗客が数名連れだって、空港内の免税店に向かっている。店の入口付近の棚には、黒光りするウイスキーのボトルがずらりと並んでいる。買い物客用のカートに缶ビールを2ダースほど積んで、レジに並んでいる人の姿が見えた。

搭乗する前に目を通していたドバイの観光情報ウェブサイトによると、この国はイスラム教の文化が根付いていることから、特別なラインセンスを持っていないと小売店でお酒を購入できないそうだ。日本のコンビニエンスストアのようにお酒を購入できる店は、街中にない。ホテルやレストランなどではお酒を提供しているが、「気軽に、一杯飲みたい」という人には、空港の免税店でお酒を購入し、宿泊先の冷蔵庫にストックしておくのがお勧めらしい。

11月とはいえ、天候が良ければ日中は30度近くまで気温が上がる。日差しが照り付ける陸上競技場で丸1日過ごせば、アルコールにそれほど強くはない私でも、「軽く一杯、飲みたい」という気分になりそうだ。しかし、この国では、競技場内でビールを片手に喉を潤しながらスポーツを観戦することはありえない。競技場近くの店でお酒を購入することも叶わないだろう。

私が一杯飲めるとしたら、1日の競技がすべて終わった後、宿泊先のホテルの部屋に戻ってからになりそうだ。

空港からタクシーで40分ほど走ると、道路沿いの壁面に、競技用車いすで走る選手の姿がデザインされたロゴが描かれているのを見つけた。ロゴの周囲には「WorldParaAthleticsChampionship Dubai2019」と書かれている。入口には警備員が立ち、そこから出入りする人を首から下げたIDカードで確認していた。私は日本から来た取材関係者であることを告げ、受付でパスポートを見せてIDカードを受け取った。

門を入ると小さな広場があり、その奥に白いコンクリートでつくられた陸上競技場が建っている。緩やかなスロープを上がっていくと、2階に設けられている観客席に出た。トラックのホームストレートを見下ろすように、プラスティック製の座席が階段状に並んでいる。腰を下ろそうとしたが、座席の表面が薄く埃を被っている。指先で触れると、ざらりとした感触があった。風が細かい砂を運んできているようだ。競技場からは見えないが、近くに砂浜か砂漠があるのかもしれない。

太陽は西の地平線の下に沈み、競技場の照明に灯りが入った。人工的な灯りに照らし出されたタータンの水色は、昼間の太陽光で見たのと比べると少し冷たい感じがした。

観客席の最前列に、同じデザインの揃いのジャージを着た3人の男性が陣取った。どの国かは分からないが、その国の代表選手の指導をしているコーチか、身体のケアを担当するスタッフのようだ。タブレットを開いて示しながら、隣り同士でやりとりしている。

これから始まる車いす男子T54クラス800m決勝は、選手たちがトラックを2周する。私が注目しているのは、スタートから最初の100m、第2コーナーを過ぎたところにあるブレイクラインまでの走りだ。

800mのスタートは、レーンがセパレートになっている。選手はそれぞれ与えられた自分のレーンから走り出す。第2コーナー過ぎにあるブレイクラインを越えると、レーンはオープンとなり、選手はどのレーンを走ってもよい。たいていは外側のレーンを走っていた選手が内側のレーンに入ってくる。集団の中で、どの位置を走るか。選手同士のポジション争いが始まる。

日本陸上競技連盟のウェブサイトでは、800mについて「陸上の格闘技」と書かれていた。800mよりも短い距離の種目は、スタートからゴールまで、レーンはセパレートになっている。100m、200m、400mの短距離は、自分に与えられたレーンを他の選手より速く走った選手が勝者だ。

一方、800mよりも長い距離、1500mや5000mでは、レーンはスタートからゴールまでオープンになっている。最初から集団走となるが、走る距離が長ければ、スタート直後に狙ったポジションを獲れなくても、改めて狙う機会をつくれるだろう。

レーンがセパレートからオープンに移行するのは、800mならではの特徴といえる。トラック2周では、序盤で出遅れると巻き返すチャンスをつくるのが難しい。ブレイクライン付近で狙ったポジションを獲得できるか否かが、勝敗に大きく影響する。このため、選手同士のポジション争いが重要になる。その激しさゆえに、「格闘技」に例えられるのだろう。

日本陸上競技連盟のウェブサイトに掲載されている説明は、健常者の陸上に関するものだが、基本的なルールは車いすの陸上も同じだ。

車いす陸上ならではの特徴を挙げるとしたら、陸上競技用の車いす(レーサー)の構造だろうか。レーサーは3輪の構造で、選手が座る椅子から前方にまっすぐ伸びたフレームの先に小さい車輪がついている。前輪から後輪までを測ると、全長は180センチほどだ。その縦長の車体を、選手たちは自身の身体と一体化するようにして走っている。互いに接触しないように最低限の車間距離は空けなくてはならない。他の選手を一人追い抜く際には、レーサー1台分の車体を念頭に追い越しを掛ける必要がある。レーサーの車体の長さやレーサーならではの距離感を念頭に、集団走でのポジション争いが繰り広げられている。

車いすT54クラスの800mは1分30秒前後だ。レースを終えた選手たちは報道陣の質疑に応えるため、ミックスゾーンと呼ばれるエリアに来るが、トラックからミックスゾーンまでそれほど距離がない。レースの後、鈴木がミックスゾーンに来るまでに10分もかからないだろう。レースを観戦するには、トラック全体が見える観客席からのほうがよいが、観客席からミックスゾーンまでの移動は時間がかかってしまう。

800m決勝を終えた後には、鈴木の第一声を聴きたい。特にスタートからブレイクラインまでの走りの感想を知りたかった。

彼の声を確実に聞くには、ミックスゾーンに待機しているのが無難だ。私は席を立ち、速足でスロープを下った。

取材陣が考えることは共通していたようで、すでに日本人の記者たちが数人、ミックスゾーンの脇に設置されたテレビの前に集まっていた。

私はスマホでパラ陸上世界選手権のウェブサイトを検索し、手元に男子T54クラス800m決勝のスタートリストを表示した。

世界記録保持者ダニエル・ロマンチュク(アメリカ)は予選1組目の1着、2016年リオ・パラリンピック800m金メダリストのマルセル・フグ(スイス)は予選2組の1着で決勝に残っている。ダニエルとマルセルは現時点のWPA世界ランキング1位と2位だ。

予選1組目2着に入った中国のチャン(ZhangYong)は、鈴木が5月のスイス遠征で急成長ぶりを意識した選手だろう。スタートリストに記されている今シーズンの自己ベストタイム(シーズンベスト)1分31秒41は、鈴木のシーズンベスト1分32秒30を上回っていた。

テレビ画面には、水色のタータンに白いラインが引かれたトラックが映し出されている。

テレビカメラは2階の観客席の上のほうからトラックを見下ろし、スタートラインに並んだ選手たちの背中を捉えた。これから始まる決勝のレースに向けて意識を集中させているのか、選手たちはほとんど動かず、じっとしている。

テレビカメラが切り替わり、スタートラインの前方斜め正面から選手たちを映し出した。

照明の光を受けて輝いている銀色のヘルメットは、「銀色の弾丸」というニックネームを持つマルセルだ。上半身を前に伏せ、両腕の力を抜いてレーサーの上に置いている。上半身をゆっくり起こしながら、下唇をほんの一瞬、きゅっと噛んだ。

テレビカメラの視線が内側のコースに移動する。水色のユニフォーム、胸に白抜きの文字で描かれた「USA」。黄色のヘルメットを被っているのは世界記録保持者のダニエルだ。頬がほんの少し膨らんでいる。唇を結んだまま、鼻から静かに息を吐いているようだ。

テレビ画面を通して、観客席が次第に静かになっていくのが分かった。アナウンスの音声は聞こえないが、決勝を走る選手の紹介が始まった。

赤い布地に肩から腕にかけて紺色のラインが入っている、日本のユニフォームを身に着けているのが鈴木だ。自分の名前を呼ぶ声に、右手を軽く胸の前に上げて応えた。画面に映し出された顔から、何かを読み取るのは難しい。感情をあまり表に出さない、いつもの鈴木に見えた。

鈴木の視界には、これから走るレーンの前方が入っているはずだが、それを見ている感じはしない。頭の中にあるのは、視覚でとらえたものではなさそうだ。もしかしたら、考える作業はすでに終えているのかもしれない。思考を実行に移す時が来るのを待ちながら、

自分自身に意識を集中しているようにも見える。

選手たちがレーサーの漕ぎ手(ハンドリム)に手を添えた。

「セット」

選手たちの身体が静止し、音声のないテレビの前にいる記者たちに準備が整ったことを伝えた。

次の瞬間、止まっていた空気が大きく波打つように前へ向かって動き出した。

(取材・執筆:河原レイカ)

(写真提供:小川和行)