日本パラ陸上競技選手権大会(高松市)男子T37 100m 写真中央が反町公紀選手

日本パラ陸上競技選手権大会(高松市)男子T37 100m 写真中央が反町公紀選手

脳に障害がある場合は、どうだろうか。
私がまず知りたかったのは、脳の障害が、身体の動きにどのように影響するかという点だった。
高次脳機能障害があっても、脳の指令が身体に上手く伝わるのか。
伝わりにくいとしたら、それは何らかの方法で改善できるのか。
それを知りたかった。

「高次脳機能障害は、私が知っている数例でも、それぞれ全く異なります」

高次脳機能障害は、脳のどの部分に、どの程度の障害が負ったかによって、症状の現れ方がさまざまで、個人差が大きいといわれている。
中澤教授が指摘したのも、高次脳機能障害者の運動についても一括りで説明するのは難しいという点だった。
その点を踏まえたうえで、脳と身体のつながりについて、話は続いた。

「運動を、脳と身体のつながりという点からみると、随意運動と不随意運動の2つに分けられます。
運動を自分の意思で行う場合、脳の大脳皮質から指令が出て、それが身体に伝わって動きます。
これが随意運動です。

例えば、脊髄が損傷した人は、脳から出された指令が脊髄の損傷箇所で遮断されてしまいます。
つまり、指令が脊髄の損傷箇所から先には伝わらず、思ったとおりに身体が動きません。
脳の障害の場合、指令が出される最初の箇所に障害があります。
このため、私が知っている数例で、運動は全く異なるパターンで現れます。
脳に障害がある場合は、運動への影響は非常に複雑になるんです。

例えば、高次脳機能障害があっても、立って歩くことができ、身体にはほとんど障害がない人もいます。
しかし、脳には障害がありますから、脳からの指令が上手く伝わりません。
身体は健康といえる状態でも、動きの微調整ができなかったり、不器用な動きになることがあるんです。
不随意運動について言いますと、これは、脳からの指令とは関係なく、身体が動いてしまう運動です。
脳に障害があると、極端な形で不随意運動が出てしまうことがあるんです。

人間は、脳から脊髄に対して絶えず指令を送っています。
これは、運動が活発になりすぎないように抑えるための指令です。
脳からの指令は、身体を動かすだけでなく、身体の動きを抑えるものもあるんです。
脳に障害があると、この脳から脊髄への指令が外れてしまうことがあります。
指令が届かなくなってしまうので、身体の神経が暴れて、運動の抑えが利かなくなります。
このため、手足が絶えず震えている「震せん」といわれている運動が起きたりします。
人間にとっては、余計な運動をしてしまうことがあるんです。

私の研究室に来ていただいた方の中に、交通事故で脳に重傷を負った方がいます。
彼は脳に障害がありますが、歩行の機能は回復していて、マラソンの42.195キロを完走しました。
しかし、ペンを持って文字を書く動作はできません。
震せんがあり、ペンを持つ書字運動が上手くコントロールできないのです」

脳からの指令は、身体を「動かす」だけではなく、「動きを抑える」ものもある。
脳から身体への指令には、「動け!」もあるし、「動くな!」もあるということだ。

人の脳は、一日の生活の中で、どれほど指令を出しているのだろう。
朝、目が覚めて、服に着替えて、朝食を食べる。
部屋を出て、玄関のカギを閉めて、駅まで歩く。
乗り込む電車は満員だ。
乗客と乗客の隙間を狙って、自分の身体をねじ込むように乗車する・・・。
そんな朝のひとときを考えてみても、私の身体はさまざまな動きをしている。
これらは、脳からの指令に依るものだ。

「動け!」だけでなく、「動くな!」という指令にも支えられて、私の生活は成り立っている。
中澤教授の説明を聞けば聞くほど、脳の奥行きがどんどん深くなっていくように感じた。

公紀が100mを走る姿を思い浮かべてみる。
公紀は、脳の障害で右半身に麻痺が残っている。
右手では物を掴んだり、文字を書いたりするのは難しい。
顏に噴き出た汗を拭うのに使っているのは、左手だ。

脳と身体のつながりでみた時、公紀は自分の思いどおりに身体を動かせているのだろうか。
体が勝手に動いてしまう不随意運動はないようにみえるが、私が気づいていないだけかもしれない。

母親の由美さんにも、脳の障害が身体の動き与える影響について尋ねたことがある。
「脳でイメージしたことを、身体に落とし込むのが難しいみたいです。
身体にフィードバックする時に邪魔されるようです。公紀には、失行と失認があるんです」
「失行」とは、一度覚えた行動を忘れてしまい、行動を再現するのが難しいこと。
「失認」とは、物事を認知するのが難しいということだ。

先日、歌手の西條秀樹さんが亡くなり、テレビ番組でヒット曲「ヤングマン」の映像が流れていた。
「ヤングマン」は、西條秀樹が両腕を頭上に挙げて、「Y、M、C、A」の振りをするのが印象的なヒット曲だ。
テレビを観ていた公紀は、由美さんの前で、「Y、M、C、A」の振りを真似してみせたという。
両腕を上に挙げて開いて「Y」、そこから両手を頭の上につけて「M」、その後、再び両手を上に挙げ、両腕の間を開けたまま左側に傾けて「C」をつくるのだが、公紀は体を傾ける方向が逆になってしまう。
テレビ画面の中で踊る秀樹と、公紀は向かい合っているから、左右の対称を意識して踊ることが必要だが、頭で分かっていても、それを動きに落とし込むことが公紀には難しい。

由美さんによると、障害を持つ前の公紀なら、目で見た動作をすぐに覚えて、確実に再現することができた。
しかし、高次脳機能障害がある今は、目で捉えた動作を自分の身体で再現できるようになるまで時間が掛かる。

陸上のトレーニングも、失認や失行とつきあいながら続けている。
コーチの関口紘樹さんが示した腕の振りや足の動作を、同じように再現するまでに時間が掛かる。
ただし、陸上を始めた頃よりも再現できるまでの時間は、ずっと短くなっているという。

目で見た動きを覚えて、自分の身体で再現するまでにかかる時間が短くなっているとしたら、公紀の脳にも何らかの再編が起こっているのかもしれない。
もし、トレーニングを続けることが脳に変化をもたらしているとしたら、大きな意味がある。
トレーニングを続けることで、今はまだ難しいことや時間が掛かっていることが、少しずつ改善していくかもしれない。
公紀には、「陸上を頑張りたい」というモチベーションはある。
今後も、トレーニングを続けることはできそうだ。

ただ、そこから先、どうしたいのか。
何を目指しているのか。
私には、よく分からない。

「何が何でもパラリンピックに出て、メダルを獲ってやる」
「パラリンピックのためなら、他のものを犠牲にしてもいい」というような熱さを、公紀の様子から感じたことは、まだない。

中澤教授の穏やかな声の調子は、取材が開始した時間からずっと変わらない。
私の質問を汲み取り、一つひとつ言葉を選びながら、できる限りの答えを示してくださっている。

「反町選手の原稿を読ませていただいた限りですが、彼は、少なくとも記録を上げようとして、競技に参加していると思いました。
モチベーションをもって競技に参加していることは、まず、素晴らしいと思います。
例えば、ある時、突然、脳卒中で身体が麻痺してしまい、絶望的な気持ちになる方がいます。
以前の身体には戻らないことに失望し、リハビリに前向きになれず、病院で勧められてもリハビリをしない方もいます。
そういう方がリハビリをしなければならない場合と比べたら、反町選手の運動へのモチベーションは、ずっと高いと思います。
そのモチベーションをさらに高いレベルに上げていくには、勝ちたい、記録を上げたいという欲求を、彼がどれほど鼓舞できるかということに掛かっているかもしれません。
私に言えることは、それくらいのことですね…。
ただ、モチベーションがあるということは、リハビリの言葉でいえば、「神経の再編」、「機能回復」、競技の言葉でいえば「パフォーマンス」、それらの向上につながります。
最低限のモチベーションは必須の要件であり、これが高いことは、パフォーマンスを上げると考えています」

公紀のモチベーションをさらに高いレベルに鼓舞できるかどうかは、彼の今後の課題だ。
今後の目標を尋ねたら、「自己ベスト更新」以外の答えが返ってくる時が来るのだろうか。
その日が来るのは、2020年よりも前なのか、それともずっと後になるのか。
もうすぐという気もするし、まだまだ時間が掛かる気もする。

ただ、公紀が、陸上競技に前向きに取り組んでいる限り、公紀の脳に、何らかの変化は起こる可能性がある。
その変化を信じることは、根拠のない盲信ではなく、脳と身体の研究で示されたデータに基づくものだと考えていいはずだ。

【参考文献】
中澤公孝・東京大学大学院総合文化研究科:
「パラリンピックブレイン―パラアスリートに見る脳の再編能力―」,計測と制御,第56巻第8号,2017年8月号,公益財団法人計測自動制御学会

(取材・撮影:河原レイカ)