
2019年5月、鈴木はスイスへ遠征していた。世界パラ陸上連盟(WPA)公認のNotwill大会(5月24日~26日)とArbon大会(5月31日~6月2日)に出場し、自身が持つ車いす男子T54クラス800mの日本記録更新を狙う計画を立てていた。
800mの世界記録はアメリカのダニエル・ロマンチュク(Romanchuk Daniel)が2018年に出した1分29秒22。これに対し、鈴木が保持している日本記録は1分31秒74だ。
鈴木は、パラリンピックの800m決勝でメダル争いをするためには1分30秒台が目安のひとつになると考えていた。まずは、自身の記録を更新し、1分30秒台に近づけることを目指していた。
スイスArbon大会で使用される競技場のトラックは、車いすの選手たちの間では「高速トラック」として知られている。車いす競技では、トラックの状態が記録に大きく影響する。タータンを張り替えたばかりの真新しいトラックは、レーサーのタイヤが接地する際の摩擦力が強い。タイヤを回転させるための漕ぐ力がより多く必要になることから、選手たちが「重い」と口にする。重いトラックでは、レーサーの速度は上がりにくく、好記録は出にくい。
一方、タイヤとの接地面が均されているトラックは、タイヤがよく転がり、加速しやすいため、好記録が出ることが多い。Arbonのトラックは相当使い込まれているのか、他の競技場よりも格段にスピードが出るようだ。
このため、トラック種目をメインに位置付ける車いすの選手たちの多くが、目標とする記録を出すため、スイスの大会に参加する。
公式記録を確認しても、Arbonのトラックが「高速トラック」であることが分かる。2019年のWPA公認大会で出された記録をもとに作成されるランキングで、車いす(T54クラス)の中長距離の種目をみると、上位にランクされている記録はすべて、Arbonで出されていた。
800mは1位から13位までの記録がすべてArbonで出されている。1500mも1位から17位まで、5000mも1位から25位までに入った選手の記録がすべてArbonで出されたものだ。
WPAの公認大会は、中国やブラジル、アメリカなど他の地域・国でも開催されているが、他の地域での大会よりもスイスのArbon大会で好記録が出されている。好記録の要因はトラックの状態だけではないかもしれないが、1人、2人ではなく、複数の選手が好記録を連発していることを考えると、「高速トラック」が寄与しているのだろう。
デジタルカメラのメニュー画面で、天候にあわせた撮影用のモードを「曇り」にあわせた。
網走市営陸上競技場は小高い丘の上につくられており、周囲には高層の建物はない。競技場の周りに植えられた数本の街路樹が遠くに小さく見えるだけで、視界を遮るものはなかった。見上げた空から視線を下ろすと、赤褐色のトラックがすぐに視界に入ってくる。空と地面の距離がずいぶん近く感じられた。
目の前を左から右へ競技用車いす(レーサー)が駆け抜けていく。タイヤがトラックを擦り、シューッと音を立てている。
黒いトレーニングウェアに黒いヘルメット。黒で身を包んだ身体は、2カ月前に見た時よりも全身が締まったように見える。皮膚の下では脂肪がさらにそぎ落とされ、必要な個所には計算どおりの分量で筋肉がついているに違いない。
鈴木はお辞儀をするように上半身を前へ深く倒したまま、両腕を引き上げ、上から下へ降ろす。両手で車輪の外側についているハンドリム(漕ぎ手)を押し出し、再び、腕を引き上げて降ろす。引き上げて降ろす腕の動きは乱れがなく、一定の動きを一定のリズムで反復していた。トラックの外側から眺めている私の前を、鈴木のレーサーが通過するたび、速度が上がっているのが分かった。
午前10時から正午ごろまで約2時間の練習を終え、網走市営競技場からホテルに戻った。小一時間の休憩をとった後、鈴木はインタビューに応じてくれた。
ホテルの1階にある喫茶室は混みあっており、空いた席がなかった。ロビーを見渡すと、隅のほうに4人掛けのテーブル席の一つが開いている。そのテーブルを陣取ると、鈴木の車いすが入れるように、ホテルの従業員が椅子2脚を外して開けてくれた。私は鈴木と向き合い、音声を録音するためのICレコーダーをオンにした。
(取材・執筆:河原レイカ)
(写真提供:小川和行)
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