「世界最速の男が、決まります!」
男性アナウンサーの声の調子が一段と高くなり、人々に注目を促した。
2009年8月、ドイツ・ベルリンで開催された世界陸上競技大会。
画面に映し出されている種目は、男子100m決勝だ。
私は、書きかけの原稿を保存してノートパソコンを閉じた。
肩を後ろに大きく回し、頭を左右に傾けて首筋を伸ばす。
映像を観るだけなのに、どこか緊張している。
硬くなっている身体を内側から解きほぐすため、大きく一つ、息を吸い込んだ。
スタートの号砲で、世界屈指のスプリンターが一斉に飛び出す。
アメリカのタイソン・ゲイ、ジャマイカのアサファ・パウエル、そして同じくジャマイカのウサイン・ボルトだ。
身長195センチのボルトの姿に、私の視線がひきつけられる。
他の選手よりも背が高く、骨太で、がっしりとして見える。
体重がどのくらいあるかは知らないが、それなりの重さはありそうだ。
肉体に掛かる重力は、その動きを止める方向ではなく、前へ前へ加速する力に変えられている。
一足、一足、蹴り出すたび、ボルトの体が他の選手より前へ前へとせり出した。
タイソン・ゲイも加速に乗ってボルトを追いかけているが、すでに開いた差はそのままで縮まらない。
「あーぁっ!」
解説者の言葉にならない声が漏れた。
その声で、我に返り、私は貯まっていた息をふぅーと吐き出した。
自分が感じているものを表わすのに、どんな言葉がふさわしいのか、分からない。
ただ、すごい。
すごい。
それしか、出てこない。
ゴールを駆け抜けたボルトは両腕を横に広げている。
たたき出された記録は9秒58。
世界記録が9秒5台に乗った。
2019年2月現在、ボルトがつくった世界記録は未だ破られていない。
彼はすでに現役を引退したが、その名は記録に刻まれている。
障害者陸上(パラ陸上)の「世界最速の男」といえば、誰か。
パラ陸上の車いすT54クラスには、頂点に君臨し続ける「世界最速の男」がいる。
2004年のギリシャ・アテネ大会から、2008年の中国・北京大会、2012年のイギリス・ロンドン大会、そして2016年のブラジル・リオデジャネイロ大会まで、パラリンピック4大会連続100mの金メダリスト。
フィンランドのTAHTI Leo Pekka(レオペッカ タハティ)選手だ。
レオペッカが走る姿は、蒸気機関車に喩えられる。
前傾して低い姿勢を保った上半身は、車輪の上にしっかり乗った車体。
両腕を上から下へ下ろしてレーサーの両輪を漕ぐ動きは、蒸気を利用してピストンの力を車輪に伝える「主連棒」に似ている。
蒸気の駆動力が車輪に伝えられる様子と、一漕ぎを終えると、すぐに次の一漕ぎを繰り出して速度を上げていく両腕の動きのイメージが重なる。
レオペッカは、2016年のリオ大会100m決勝で13秒90を出して優勝した。
2位の選手と明らかな差をつけてゴールする姿は、世界記録を出した時のボルトの姿と重なる。
世界記録13秒63を保持しているのもレオペッカだ。
男子T54クラスの「世界最速の男」であるレオペッカが、2020年の東京大会で5連覇を達成するのか。
それとも、レオペッカに代わり、新たに「世界最速の男」となる選手が現れるのか。
それは、パラ陸上のT54クラス100mの見どころになるだろう。
そして、T54クラス100m決勝を目指す一人の日本人選手にも注目したい。
(つづく)
(取材・執筆:河原レイカ)
(写真提供:小川和行)